「最後」と「唯一」の融合

「桜なべ中江別館 金村」は、吉原最後の料亭「金村」を中江が引き継ぎ、新しく生まれ変わらせたお店です。

「金村」は吉原遊郭の茶屋として栄え、政界・財界のお客様も愛用した伝統ある料亭でした。

日本最大の歓楽街として繁栄を極めた吉原の中で生まれ、吉原遊郭が廃止された後も、他の茶屋や料亭が次々と店を閉じる中、最後の料亭として吉原文化と江戸の粋を伝え続けてきました。

しかし、時代の流れには逆らえず近年は休業状態となり、ついに平成21年にその歴史の幕を閉じるところでした。

一方「桜なべ中江」は明治38年の創業以来、現在と同じ場所に100年以上、桜鍋にこだわり続け、吉原に数十軒あった桜鍋の店の中で、ただひとつ明治から続く店として残り、今日まで営業を続けてきました。

ふとしたきっかけで「金村」の閉店を知った中江四代目が、「吉原の文化と歴史の灯を消してしまうのは忍びない」という思いから「金村」を引き継ぐこととなりました。

「吉原最後の料亭」と「吉原に唯一残った明治創業の蹴飛ばし屋*1」がひとつになったのが「桜なべ中江別館 金村」なのです。

*1 蹴飛ばし屋=桜鍋の店の別称。馬が怒ると後ろ脚で蹴飛ばすことから

吉原と桜鍋

桜鍋は吉原発祥の料理で、数少ない東京の郷土料理のひとつです。

桜鍋が生まれたエピソードとして伝えられている話のひとつをご紹介します。

その昔、吉原遊郭で遊びお金を使い果たした人が、自分の乗ってきた馬を遊郭近くの商家に売り、支払に充てていました。

そんな遊び人が多かったのでしょう。
商家では馬ばかり集まってしまいました。

そして、明治維新の文明開化の頃です。

それまで禁忌とされていた食肉が許され、横浜では「牛鍋」が大流行し、豚肉も大いに食されるようになりました。

「牛や豚が美味いなら馬も」ということで、遊び人から買った馬を鍋にしたところ大評判となり、吉原の名物となりました。

明治の最盛期には、吉原遊郭の周りに数十軒の桜鍋の店が並んだそうです。

中江もその中の一軒でした。

中江が、東京の中でも辺鄙な場所で、駅から遠く、飲食店の経営としては非常に厳しい立地条件である吉原にこだわるのは、こんな歴史があるからです。

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