桜なべ中江

桜なべ中江の歴史

 中江百年物語 

創業明治三十八年 百十余年にわたる中江の歴史をご紹介いたします

明治編

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明治 編

吉原名物桜なべ

文明開花の中、桜鍋はハイカラなグルメとして誕生しました。
当時、遊郭があり、粋な歓楽街として栄えていた吉原には桜鍋を売る店が二十軒以上も軒を連ね、吉原名物、数少ない東京の郷土料理として、吉原遊郭行き帰りの粋客から朝・夜問わず食されたといいます。明治38年に中江もその中の一店舗として暖簾を掲げました。
遊郭からの朝帰りのお客様、昼食、夕方は遊郭へ繰り出す前の腹ごしらえ、そして深夜は遊郭帰りの夜食にと、中江は一日中賑わっていたそうです。
創業当時はライバル店がたくさんありましたが、現在吉原に残ったのは中江だけになってしまいました。

桜鍋には『味噌ダレ』がつきものです。淡白な桜肉にコクを与える味噌ダレですが、桜鍋に最初に味噌ダレを使ったのが中江の初代店主:桾太郎です。つまり、中江は現在の桜鍋の元祖なのです。

桜鍋は当時から滋養強壮に良いと言われていました。
現代でもスタミナのつく料理を食べることを『馬力をつける』と言いますが、これは吉原の桜鍋を食べることが語源です。

当店は「土手の中江」という愛称をいただいておりますが、理由をご存知ですか?
当時、中江の前は堀になっていて土手がありました。後に区画整理で掘は埋められたのですが、今でも堀と土手があった頃にちなんで「土手の中江」と呼ばれています。ちなみに、中江の前の道路は「土手通り」です。
映画『吉原炎上』のラストで、主人公が土手を人力車に乗って去っていくシーンがありますが、その土手が中江の店の前にあった土手です。

大正編

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関東大震災と店舗再建

現在の中江店舗は、関東大震災で倒壊後、その翌年に再建されたもので、もうすぐ築100年を迎える大正建築です。
大工さんは、神社などを建築する宮大工にお願いしたので、店内のあちこちに宮大工の匠の技がみられます。
これまでに何度か改築・改装を重ねてきましたが、当時の雰囲気をできるだけ残し、外観はほとんど当時と変わりません。

また、再建当時はまだ資材が豊富だったようで、建築関係のお客様からお教えいただいたのですが、紫檀や黒檀が店内の床柱などに使われ、現代では柱一本で外車が買えるほどの材料が使われているそうです。

この店舗は平成22年に文化庁の国指定登録「有形文化財」に指定されました。お食事の際は、料理と共に文化財となった店舗もお楽しみください。

二代目店主:祖太郎は、たいへん絵心があり、店内にもいくつかの絵が飾ってあります。「牛負けて、馬勝ったの絵」もそのひとつです。
素人画家ではありましたが、祖太郎の絵は神社やお寺に奉納され、地元では評判だったようです。

また、中江はちょっとした博物館のように画家や文化人の作品を飾っています。
「何でも鑑定団」でも有名。本物だったら何百万と言われる「谷文晁」の作と伝えられる「四季の馬」や、常連だった「武者小路実篤」が中江のために扇に書いてくれた書などがあります。ご来店の際には、ぜひお楽しみください。

昭和・戦前編

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昭和・戦前 編

戦争の中の奇跡

戦前の昭和という激動の時代は、もちろん中江にとっても衝撃的な時代でした。
一番の出来事は、太平洋戦争が始まり戦局思わしく無い頃に、軍部の鉄不足のために、中江の命とも言える鍋を物資供出で差し出さなければならなくなったことと、戦時中の食料不足で桜肉の入手が困難になり、やむなく桜鍋の営業を中止したことです。
そして、戦時中の東京で最も悲しく、痛ましい出来事が起こりました。
昭和20年3月10日。深川、浅草を襲った「東京大空襲」です。

そこで奇跡が起こりました。

300機を越える米軍のB29爆撃機が下町地域を襲い爆弾を投下。深川、浅草を中心に下町中が火の海に飲み込まれた「東京大空襲」でしたが、その中で、中江店舗は焼け残ったのです。

築100年が間近となり、国の有形文化財に指定され「中江の名物のひとつ」とまで言われている今の店舗ですが、この奇跡が無ければ今頃は近代的な建物で営業していたであろうし、そうなっていれば、明治から続く雰囲気を楽しんでいただくこともできなかったでしょう。

「東京大空襲」から約5ヶ月後、戦争が終わりました。
終戦直後のごたごたはあったでしょうが、中江は桜鍋の営業を再開しました。

おまけのエピソードです。

東京大空襲は、まさに下町を焼け野原にしました。
そのとき、日暮里に住んでいた四代目女将の父は、焼け野原の中、はるか遠くにポツンと焼け残った中江店舗を眺めて
「ちくしょう!あの家だけ焼け残りやがって!」
と悔しい思いをしたそうです。

まさか、その数十年後に自分の娘が、その悔しく思った家に嫁に行くとは微塵も思っていなかったことでしょう。

昭和・戦後編

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昭和・戦後 編

桜肉へのこだわり

「芸術は爆発だ!」で有名な世界的画家で中江の常連だった岡本太郎画伯がある日言いました。

「おやじ、僕はフランスで馬肉のタルタルステーキをよく食べたのだが、同じようなものを作ってくれ」

そして三代目の隆一と岡本太郎画伯が共同でつくったのが、岡本画伯のお名前にちなんで「タロタロユッケ」と名付けた中江の名物メニュー「桜肉のタルタルステーキ」です。
和食の店なので他のメニューにも合うように、味付けは醤油とゴマ油の「ユッケ風」に仕上げました。
残念なことに作品やサイン・写真などは残っていないのですが、名物メニューとして永遠に続くものを岡本太郎画伯は残してくれました。

嬉しい事に中江には、創業当時から小説家、芸術家、芸能人、スポーツ選手などの著名人の常連様がたくさんおります。
ざっとそのお名前をあげるだけでも

 小説家 武者小路実篤
 歌舞伎役者 十一代目 市川団十郎
 落語家 三代目 三遊亭金馬
 作曲家 團伊玖磨
 画家 東郷青児    (敬称略)

など、さまざまな分野の方々にご贔屓いただいております。

武者小路実篤は、中江のために扇に詩を書いていただき、その扇は店内に飾ってあります。
また、團伊玖磨先生は、雑誌に連載していた「パイプの煙」というエッセイで、何度も中江を取り上げていただき、三代目、四代目は実名で登場させていただきました。
現役の方ですと、ご迷惑になることを考え、お名前は差し控えさせていただきますが、この他にも歌手、角界、落語家など、現在もよくおいでになる著名人の方々がたくさんいらっしゃいます。

また、とある皇族の御方も中江の桜鍋をたいへんお気にいりとなされ、お忍びでご来店いただいております。

桜肉へのこだわりは、どこにも負けないつもりでおりますが、中江の肉は本当に特別なものです。
九州・久留米の「このみ牧場」さんのご協力の上、中江専用の桜肉を飼育してもらっています。その特別の条件とは・・・

 ■北海道で産まれ九州・久留米の「このみ牧場」で中江専用に育てられた純国産の食肉馬であること
 ■通常の2倍以上となる5~7歳まで、穀物を中心とした飼料で育てた馬であること
 ■冷凍せずチルド状態で産地から直送された肉であること

これが中江の譲れないこだわりです。

詳しくは「桜肉の秘密」をご覧ください。 

平成編

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創業百年

平成の時代に入った頃は、バブル景気で日本中が湧いていました。あの頃はどこの飲食店も儲かっていたことでしょう。しかしそれも束の間のことで、バブル経済崩壊でバタバタと店をたたむ飲食店が出ました。
中江はというと、「2代目が体験した昭和4年の世界大恐慌のときに比べたらまだマシだ」という気持ちで、難局を乗り越える覚悟でした。
長年店をやっているだけですが、こんな体験が積み重なっていることが中江の貴重な財産になっています。
そんなバブル経済崩壊の少し後に、四代目白志が店主となり、不景気の中、まさに爪に火を灯すような節約、ムリ・ムダ・ムラを無くして何とか厳しい時期を乗り越えました。
しかし、節約だけではありません。
厳しい中でも店を改装し、一階を掘りごたつにしましたが、これがお客様からご好評で、やった甲斐があったというものです。

同じ頃には、古来より「お肌に良い」とされてきた「馬油」を配合した基礎化粧品「フレーメルシリーズ」の開発も行いました。
こちらも根強い馬油ファンの皆様からご好評をいただきました。

そんな頑張りの結果でしょうか、平成15年頃よりマスコミからの取材が増え、それまで知名度の低かった店が、テレビや雑誌のおかげでお客様もだんだんと増えました。
さらに「食べてもお肌によい桜肉」ということで、女性ファッション雑誌に記事が掲載され、それまでほとんどご来店の無かった若い女性のお客様にご来店いただくようになりました。
誠にマスコミ各社、そしてご来店いただいたお客様への感謝の念に堪えません。

平成17年。中江は創業百年を迎えました。
創業百年記念として、記念行事を行い、その目玉として制作したのが「中江百年物語」というDVDです。
中江の歴史や料理、化粧品の使い方などを収録した動画が納められたもので、当時にご来店されたお客様にプレゼントしました。
山あり谷ありのこの百年間は、これまでご来店いただいたすべてのお客様のお陰だと思っております。
これからも奢ることなく、皆様に喜んでいただけるよう、こだわり続け、精進し続けます。

吉原の文化の灯を消してはいけない

遊郭がなくなって以来、かつて吉原と呼ばれた街は「江戸の粋」という雰囲気からどんどん離れていきましたが、その中で平成の世になっても江戸の粋を伝えてきた店がありました。
吉原最後の料亭「金村」です。

しかし金村を仕切ってきた女将も高齢となり、西暦も2000年を超えるころから開店休業状態となっていましたが、その金村が廃業するという話を聞き、中江四代目が動きました。
ひとえに「故き善き吉原の灯を消してはいけない」という気持ちです。
そして、できるだけ趣を残しながらの大改装の後、遊郭時代から続いた吉原最後の料亭は「桜なべ中江別館 金村」として生まれ変わりました。

別館金村は完全予約制、完全個室で、中江本店では食べられない桜肉料理もお出しする「特別な日に、特別な人と、特別な時間をお過ごしいただく空間」です。

また、金村では年に数回、特別なイベントを開催しています。
浅草芸者の大衆芸術と言える歌や踊り、遊びを体験できる「芸者遊び入門」、落語家の噺を聞きながらの楽しいお食事、日本酒やワインの専門家の説明を聞きながらの飲み比べなどです。
今後も予定しておりますので、ぜひご参加ください。

金村についてはこちらをご覧ください 

令和編

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